歴史History

小学校分校、ベトナム難民援護施設、そして音浴博物館へ。

雪浦小学校久良木開拓分校として開校

雪浦小学校久良木開拓分校として開校

音浴博物館は廃校を活用した博物館です。一帯の久良木地区は、第二次世界大戦後、旧満州からの引揚者のため開拓部落でした。

昭和32年、久良木開拓団の子どもたちのために雪浦小学校久良木開拓分校として開校。多いときで47人の児童がいましたが、高度成長期に多くの人たちが都会へ移り、昭和51年に最後の児童を送り出したのち、廃校となりました。

日本赤十字社、ベトナム難民援護施設となる

日本赤十字社、ベトナム難民援護施設となる

その後、昭和55年に日本赤十字社が「ベトナム難民援護事業」の一環としてベトナム難民救援施設としてこの場所を借り上げ、学校の両サイド(現在のイベントホールと蓄音機の館)を増築しました。当時、この事業で日本には9万人以上のボートピープルと呼ばれたベトナム難民の人たちが上陸。次の国へ行くまでの一時収容施設が全国で約20箇所設けられます。そのうちの一つとしてこの場所が活用されたのです。平成7年に事業が終了するまでに実に671人もの難民がこの場所を通過していきました。

その後、大瀬戸町に返還されたこの建物は再び空き家になり、5年の間放置されることとなったのです。

栗原榮一朗により、音浴博物館が誕生

栗原榮一朗により、音浴博物館が誕生

その頃、岡山県倉敷市で職業訓練校の職員をやっていた栗原榮一朗は集めたレコード5万枚の置き場所に困っていました。友人が経営する病院の倉庫を借りて保管していましたが、病院の都合で倉庫を返却し立ち退くこととなったのです。

普通の家では入りきれないそのコレクションを所蔵し展示できる場所を求めて、全国の自治体にインターネットで呼びかけたところ、長崎県庁から連絡があり、大瀬戸町からこの建物の紹介を受けることとなったのです。この場所が気に入った栗原は岡山から平成12年の暮れから始まり、翌年ゴールデンウィークの間に10トントラック4台分を移設したのです。約200人のボランティアがこの大移動を手伝いました。

リニューアル

リニューアル

評判がよくたくさんのメディアにも取り上げられ、多くの人たちが押し寄せました。しかし、建物の老朽化対策が急務となりました。大瀬戸町は、農水省の「やすらぎ交流拠点事業」の補助金でリニューアルし、1年の休館後、平成16年3月末完成しました。

それまでは栗原による自主運営だった音浴博物館でしたが、平成16年4月から大瀬戸町の「やすらぎ交流拠点」事業として運営することとなりました。運営ノウハウがなかった大瀬戸町は栗原を中心に設立した「推敲の森実行委員会」へ建物の管理を委託します。翌年の平成17年には残念なことに、栗原が57歳で亡くなります。現在はその意志を継ぐ、NPO法人推敲の森実行委員会が西海市(平成17年西彼半島5町の合併の市)の委託を受けて運営を続けています。

年表
Chronology

音浴博物館のあゆみ

1957年(昭和32年)
雪浦小学校久良木開拓分校として開校する。
1976年(昭和51年)
雪浦小学校久良木開拓分校が廃校となる。
1980年(昭和55年)
日本赤十字社がベトナム難民救援施設として大瀬戸町から借り入れ、建物の一部を増設。
1995年(平成7年)
日本赤十字社のベトナム難民救護事業が終了し、大瀬戸町へ返還。
2001年(平成13年)
栗原榮一朗が5万枚のレコードと共に岡山県倉敷市より移り住み、音浴博物館を設立。
2004年(平成16年)
農水省の「やすらぎ交流拠点事業」補助金にてリニューアル。推敲の森実行委員会が指定管理方式で管理・運営を受託する。
2005年(平成17年)
大瀬戸町が合併により、西海市となる。栗原榮一朗が急逝(享年57歳)。